塩野七生「イタリア遺聞」
イエルサレム巡礼は、なにもキリスト教徒にかぎったわけではないこと、古代でも同じであった。また、スーベニールを 欲しがる気持では、ユダヤ教徒とて変りはない。ユダヤ教徒用には、十字架を例の七本の燭台に換えれば、立派にそれで 通用したのである。だから、スーベニールを売る店には、キリスト教徒もユダヤ教徒も、同じように群がった。これにイスラムも 加われば、そしてそれが現代にまで続いていれば、問題は起きなかったのである。いかがわしい行為を排除して、まじめ一方に なった時、人類はしばしば血を流す羽目におちいる。十字軍が良い例だ。 落書。これも、古代の巡礼者は、中世の、そして現代の観光客と何ら変わりはない。聖地巡礼の旅行日記をつけていた 人々の一人、イタリア人のアントニオは、カナの饗宴の場所を見学した時に、そのテーブルの上に、聖地巡礼を望んで 果たさなかった両親の名を刻んだと告白している。最後の晩餐のイエスの座った場所となると、ギリシア語ラテン語を はじめとする各国語の落書で埋まってしまい、聖地を管理する側としては、しばしば新しいのに換えざるをえなかった といわれる。落書だけではなかったのだ。小刀でちょっぴり木片を切りとる、不謹慎な者が多かったからである。 しかし、ミケランジェロも相当なものである。現在ヴァチィカンに所蔵されている「ピエタ」を製作した当時、 百五十ドュカートを要求した。依頼主は、高すぎるという。なにしろ、当時のミケランジェロは、二十四歳の若造だった。 だが、この若造は、平然と答えた。「得をするのは、あなたです」 まったく、ほれぼれさせられる。