『コーヒーの歴史』第1章・第2章で面白かった箇所の要約+α



コーヒーの原産地はエチオピア。アフリカ大陸の右上の端。
見つけた人物や発見までの経緯は不明。


地元で有名な昔話の一節
「ヤギたちが一本の木から、つやつやした緑の葉や赤い実をかじりとっていく。
 すると彼らは走り回り、角で小突きあい、狂ったように鳴きたてた」


6世紀ごろ、エチオピアは海を渡ってアラビア半島南端のイエメンに攻め込み、50年ほど支配した。
この時、アラブ人の間にコーヒーが伝わったと言われている。
当時は「カフワ」と呼ばれていた。アラブ語でワインの意味。「コーヒー」の語源。


マホメット
「コーヒーがあれば四十人の男を打ち負かし、四十人の女をものにすることができる」


イスラム教徒たちの巡礼により、15世紀末にはペルシャ・エジプト・トルコ・
北アフリカなど、コーヒーはイスラム圏全体に広まった。


ヨーロッパには地中海貿易を通じてオスマン・トルコ帝国から伝わった。
1602年にはローマに持ち込まれていたという。
真偽は不明だが、司教たちが時の教皇クレメンス8世に飲んでくれと頼んだ話がある。
このイスラム教徒の飲み物を禁じてもらおうとしたのだと。


クレメンス8世
「ほう、この悪魔の飲み物はたいそう美味ではないか」
「これを異教徒どもに独占させておくのは惜しい。洗礼を施してまぎれもないキリスト教徒の
 飲み物とし、悪魔を出し抜いてやろうではないか」


やがてコーヒーはヨーロッパ全土に広まっていく。


1679年、フランスの医師
「恐ろしいことにこの飲み物は……(中略)ほぼ間違いなく
 人々にワインを楽しむ習慣を止めさせる性質を有する」


1683年、ウィーンを包囲していたトルコ軍が敗走した折、天幕や食料、財宝などに混じって
奇妙な豆の詰まった大きな袋が500個も発見された。
家畜の餌に違いないと燃やされていたところへ、トルコでの生活経験のある軍人が通りかかった。


コルシツキー
「なんてことだ。君たちが焼いているのはコーヒーだぞ。
 コーヒーが何か知らないというなら、そいつを寄こしなさい。
 私なら上手い利用法を知っている」


1700年、ウィーンを訪れた旅行者
「ウィーンの町はコーヒーハウスだらけだ」


各地にできたコーヒーハウスには、役者や作家、劇作家に音楽家たちが集まって文芸談義に花を咲かせた。
18世紀に入ると、ヴォルテールやルソー、そして当時のヨーロッパで最も人気のあった
新大陸人であるベンジャミン・フランクリンなどの名士が盛んに訪れるようになった。


フランスの歴史家ミシュレ
「当代の喜ばしい革命であり、新たな習慣を作り上げた重要な出来事であり、
 人間の気質を改変したといっても過言ではあるまい」


かのベートーベンもコーヒーに取り付かれた1人。
彼は1杯のコーヒーを淹れるのに、きっかり60粒の豆を挽いていた。


1777年、ドイツのフリードリヒ大王
「我が国民はビールを飲むべきである。国王自身もビールを飲んで育ち、
 またその祖先たちも同様であった」


1952年『コーヒー名鑑』
「あらゆる見地から見て、コーヒーは永遠に我が国の主要な飲み物として残るだろう」


1975年、発言者不明
「何の変哲もない種子をかぐわしく元気の出る飲み物の原料へと変化させる時、
 コーヒー焙煎業者は錬金術士となる。その魔法は見かけ倒しでなく本物だ」




星新一氏の『気まぐれ星のメモ』や、彼の訳した『アシモフの雑学コレクション』を
イメージして書いてみました。一度こういうのをやってみたかったのです。


あとそれから、洋菓子と一緒に飲むコーヒーは最高だと思います。
甘みをほどよく中和し、かつ一体となって奏でるあのパーフェクトハーモニーが大好きです。
カスタードのシュークリーム、チーズケーキ、シフォンケーキ、チーズ蒸しパン、
そしてほどよく冷やしたエクレアのどれかにコーヒーがあれば、自分はあっさり幸せになれます。