アリフレロ キス・神話・Good by:中村九郎:スーパーダッシュ文庫



これは地雷じゃない。繰り返す。これは地雷じゃない。
何度でも言いたい。主張したい。これは地雷じゃない。
富士ミスから発売された「ロクメンダイス、」は確かに地雷と呼ばれても仕方がなかった。
なぜならあれは、ライトノベルではなかったからだ。文学だからラノベより高尚だとか、そういう事を言いたいのではない。
ライトノベルではなく小説でもなかった。あれは詩だ。繊細で透明で情感のある、けれでも捉えどころのない言葉の集まりだ。
そうした言葉群を愛でるのが「ロクメンダイス、」の読み方であり、文面から話の内容を読み取るというアプローチは通用しない。
富士ミスは仮にもライトノベルレーベルでありながら、ライトノベルと銘打って「ロクメンダイス、」を売り出してしまった。
だから地雷と呼ばれても仕方がない。ラーメン屋に来てカルボナーラを出されたら客は文句を言っていい。


けれでもアリフレロは違う。これは正真正銘、ライトノベルだ。
文章を追っていくだけで話の流れや設定が把握できる。主人公をはじめとする登場人物たちの行動原理も理解できる。
笑いどころやサービスシーンもしっかり押さえており、イラストにも気合が入っている。
タイトルの意味だってバッチリだ。読めば判るが完璧なまでにアリフレロでキスで神話でGood byな物語だ。
単純なストーリーの骨子とイラストだけでも、ライトノベルの平均クラスは優に突破している。決して地雷ではない。
そして何より肝心なのは、このライトノベルの書き手が詩人・中村九郎であることだ。
アリフレロはライトノベルでありながらも「ロクメンダイス、」に含まれていた詩才の輝きを失っていない。
むしろわかりやすくなった人物描写やストーリーへと織り込まれることにより、読者への伝達率と言うべきものは遥かに高まっている。
「ロクメンダイス、」を読んだ人間なら感じたかもしれない、外国語の詩を読んでいるかのような感覚。
綺麗なものが確かにそこにあるかもしれないと、ぼんやりとは感じられても知覚のできないもどかしさ。
アリフレロにはそれと同じ中村九郎の言葉が含まれていて、しかも理解を助けるかのような指向性を備えている。
もしかすると中村氏本人ですら、今作で初めて自分の伝えたかったものを形として把握したのかもしれない。
だとしたら、少なくとも自分はとても喜ばしく思う。先ほど「ロクメンダイス、」をカルボナーラに例えたが、
加えて言うならあれは口に入れた瞬間、跡形もなく消え去ってしまうような料理だった。そのくせ、美味しいというのはわかるのだ。
だからもっとはっきり食わせてくれと思った。半分固まった卵黄にコショウ、白ワインで炒めたベーコンに絡み合う熱々のパスタ、
それらを口いっぱいに頬張ってしっかり噛んで味わいたかった。夢は叶った。中村九郎は己の思考の加工法を習得し、
アリフレロという形あるものとして世に送り出してくれた。実在するカルボナーラは想像以上の味がした。


もう中村九郎が地雷を生産することはないと自分は確信する。アリフレロがそれを証明した。
今後彼の書く小説が地雷呼ばわりされる場合、それは単に読み手の好みの問題に過ぎないだろう。
確かに小説としての体裁を為した今でも、読み手を選ぶ作風であることは否定できない。
けれでも往々にしてそうした作品こそツボに嵌った時の喜びは大きいというのは、本読みならわかるのではないだろうか。
どうか勇気を持って一歩踏み出して欲しい。地雷の有無は自分が確かめた。あとはあなたが決心するだけだ。