ヴィーナスの命題:真木武志 角川書店



ぶっちゃけ読書って何の役にも立たないよね? と思う瞬間が無いわけでもなく
いやいやたくさん読んだだけためになるんじゃないかと自己弁護したところで
それなら十分以上に読んだんだからもういいだろう、これ以上読んだってそれほど新しいものが
得られるわけじゃないんじゃないの? と薄々自分でも気付いていたりする。


読むこと。それ自体に実用的な価値はあるのか。趣味に価値は必要ないというのは議論のすりかえ。
物語を深く読み込めるようになる。活字を追うのに慣れてくる。より高度で高尚と言われている本を理解できるようになる。
読書スキルはそれ自体で完結している。いくら高めてもそれ以外には使えない。だったら高める意味は自己満足以外にあるのか。
ひたすら本を読んでるとそんな風に考える瞬間が無いわけでもないのだけど、それでもときどき読めた事それ自体に価値があると
言い切れる本があるわけで、そんな本を読んでる間は読書スキルの実用性なんてどうでもよくなるわけで。
極上の物語を味わったとき、こんなものはどこにでも転がっているわけでは決してないと、その希少性を理解して、出会えて良かったと
しみじみ思える事こそが、読書を続けてきた人間への、ほんのささやかな報酬なのかもしれないとか思ったり。


「ヴィーナスの命題」はそういう本のひとつ。まず表紙のデザインがいい。
舞台となる高校の校舎の設計図に木目チックな色と模様、その上を気だるげに横切るオレンジ色の栞ひも。同じ軌跡で揺れる縦書きのタイトル。
下の余白には題名の英訳"The PROPOSIOM of VENUS"、その下に作者名のローマ字書きで一番下には"Kadokawa Shoten"。
憎らしいほどにセンスがいい。イラストのあるライトノベル以外の本で、いや、ライトノベルまで含めても
表紙まで印象に残る本ってのはそうあるもんじゃない。大抵みんな口絵や中絵だけで表紙イラストは見過ごしてる気がする。自分だけ?
それはともかく小説本という物の中核を為すのは間違いなく本文でだからこそ電子文庫という芸当もできるのだけど、
中心から外れた外側のデザインにまで凝る余裕があるのなら、ほぼ間違いなく中身はそれ以上に練られているだろうことが
予想できるわけで。少なくともハードカバーに関してはジャケ買いしても外れを引く可能性は低いと思う。ラノベでやるのは危険極まりないけど。


「天才高校生系ライトノベル」 この本を一言で表すならそんな感じ。
具体的には現代の高校が舞台で、何かと戦ったりするわけでもなく、特殊な能力があるわけでもなく、ただ現実には絶対あり得ないくらいに
頭のいい高校生男女のグループが主に人間関係等を主体とした日常的な謎や事件を解決する話。
現代学園異能とは135°くらいベクトルの違うジャンル。例としては「サマー・タイム・トラベラー」とか「氷菓」というか古典部シリーズとか。
結構少ないけどそれ以外に浮かばないんだから仕方が無い。登場人物の天才描写が必要不可欠なこの手の話はそうそう書けるもんじゃない。
ファミ通文庫文学少女も起こる事件は割と近いけど、人数が少ない。主人公と文学少女がメインで先輩や弟さんはその周囲にいるという感じがするし。


希少なジャンルに属する1冊というだけでは価値がない。似たような作品が既にある以上、(この本が2000年発売という事実は置いておく)
後発の作品にはそれなりの工夫が要求される。「ヴィーナスの命題」には確かにそれがある。この本にしかない、代替不可能な本当が。
それは「主人公」と「物語」の扱い方。誰もが自分という物語の主人公というさんざん既出のテーマをストレートにはっきりと、
誰も手を付けてなかったと錯覚するほどに堂々と描ききった。この小説の登場人物は誰もが本当に全員が自分の物語を生きる主人公として描かれていて
もちろん作内で中心として扱われている物語の主役はただ1人なんだけど、他の誰もが主人公になった事があるかもしくは今現在他の物語で
主人公を務めているか、とにかくそれぞれの物語を生きているというのがほんの些細な描写から推測できるようになっている。なおかつそれは
偶然そうなったんじゃなくきちんと計算づくでそう作ってあって、劇中でも「物語」について言及されてたりする念の入り様。
この構造に自分は痺れた。もちろんそれ以外の天才高校生系としての面白さだって余裕で水準点を超えまくってる。科学部に集う一癖ある部員達の描写や
頼れる謎めいた先輩に高校生ならではの青春まっしぐらなL・O・V・E!描写、知的な会話、それらを読みつつも常に頭の隅に引っかかる事件の謎、
全てを知った後、いくつかのシーンを読み返してああ! と手を打って作者を称えたくなる類の良質なミステリー要素。これを読まずに何を読む。


ただひとつ、本当にどうしようもなく残念なのは、この作者の本が6年前に出たこれ1冊以外に見当たらないこと。
おそらくもう他には読めないだろうけど、それでもただ1冊、この1冊をもって作者は世に溢れる他の90パーセント数百冊分の仕事をしたと思う。


追記:長門有希の100冊にノミネートされてたらしい。さすがは長門、良い本を読んでる。