時をかける少女



間違いなく今年最高の劇場アニメ。
その恐ろしさは内容の面白さが普遍的であること。
大人にも子供にもお姉さんにも、誰にでも極上の楽しさを提供できるアニメ。


あるものが「面白い」という評価を受けるには、そのもの自体が面白さのポテンシャルを秘めているだけでは足りない。
それに加えて「受け手がその面白さを理解できる」ことが求められる。つまりは面白さとわかりやすさの両立が理想。
難解なものが一部の受け手にどれだけ熱狂的に支持されようと、それは単なるマニア受けでしかなく商業的な大成功を収めるのは難しい。


例え話をしよう。あなたが面白いと思っているものを、親兄弟・祖父母に勧めたらどうなるだろうか? その面白さをわかってくれるだろうか?
アンデルセン神父の長剣交差、弓兵の背中、五百羅漢が結縁しての大仏起動、「戦争論」に「クラウゼヴィッツ」とルビを振って二つ名にするセンス、
藤倉冬麻の一人称、地球儀回して時間逆行、モノの死が視える、自傷行為で魔法を使う、十八番街では猫が迷う、マルタ・サギーは名探偵である。
ああ! これまでいったいどれだけ多くの傑作が、「大衆受けしない」というただそれだけの、くだらない理由のために消えていったことか!
わかりやすい面白さの作品だけが何百万も売れるのならば、売れないのにどう考えても面白い作品の作り手と受け手の立場はどうなるのか!


時をかける少女」の根幹は時間移動モノのSFで題材的には大仏起動の側に近いのだけど、
話の焦点をあくまで主人公たちの交流に絞って、時間移動に伴うややこしい要素を限界ギリギリまで削って、
それでいてタイムリープを組み込んだ物語の構造的な面白さは元のままに保って、
ストーリーを誰にでも理解しやすい形にして、時間移動のギミックを必要不可欠なまでに織り込んで、
最終的には全てが「時をかける少女」に集束する。20世紀の原作を乗り越えて成立した、21世紀ならではの「時をかける少女」。


この面白さは間違いなく誰にでも理解できる。自分の親兄弟なら絶対だし70超えてる爺ちゃん婆ちゃんでもギリギリ楽しめると思う。
だから物凄い。怖い。空しい。何で大仏と仏舎利の話が誰にでも楽しめるのか。
こんな面白さが誰にでも理解できる形で表現できるなら、同じくらい面白いのに一部のマニアにしか理解できない作品の立場はどうなってしまうのか。


まあとにかく、見てない人は時間に都合つけて映画館にゴーなのです。
ビデオで見ても面白い事は間違いないだろうけど、こいつは生で見る価値のある作品です。後々まで思い出に残りますよ、きっと。